天に召されるということ


うちの犬が天に召された。5月5日。享年13歳。自分は休みだったのでうとうとしてたのだが、起きた夕方頃には動かなくなっていた。
すぐに母に電話を入れたが、「死んでいるから」とは言えず、「調子が悪そうだから」と言ってしまった。というのも、動かなくなっているとはいえ体はまだ温かく、自分の中で「まだ生きているのでは、気を失っているだけなのでは」と思っていたので、断定できなかったのだ(その場にいた父は、すぐに死んでいると思ったようだが)。しかし、ここ最近の急激な衰弱を思い出すと、騒ぎ立てることはできなかった。「何とかして生き延びてほしい」というよりも、「苦しまずに逝ってほしい」との思いが強かったからだ。


母はすぐ帰ってきた(パートの帰りだった)。ピクリとも動かないその姿を見て、どういうリアクションを最初にとったか、実は見ていない。見れなかったと言った方がいいだろう。しばらく席をはずして、その後様子を見に行った。母は状況を悟ったようだった。母は遺体を動かそうとして、「トイレの途中だったんだ」と口にした。便が出ていたようだ。その一言を聞いて、ああ、確実に亡くなっているんだなと感じた。

母は仏壇の前に遺体を移動させ、ずっと呼びかけていた。その後落ち着いたのか、祖母やお世話になった人などに報告をし始めた。どうやら火葬するようだ。そのうち写真が要ると言い出した。これは本当にたまたまなのだが、以前余ったフィルムで撮ったものが残っていた。その写真を見せると、母はまた涙ぐんだようだった。火葬は次の日の朝行われるとのことなので、自分は一旦床についた。


朝起きると、母がまだ遺体に話しかけていた。どうやら一晩中遺体の傍にいたようだ。しばらくすると祖母が来た。母の電話を受けて駆けつけてくれたらしい。火葬場の係の人間は朝九時ごろ、遺体を棺に納めに来た。この人はこの世の悲しみを一身に背負ったような表情をする人だったが、棺に納める間、自分はその表情が生まれつきだったのか、この仕事をすることでそういう風になったのか、などと余計なことを考えていた。このとき非常に落胆したのが、棺というのが最低限の体裁は保っていたものの、白いダンボール製のものだったこと。今考えれば、毎回ペットを木の棺に納めるというのも現実的でないということがわかるが、そのときは母も少しがっかりしていたようだった。棺にはゆかりの品や好物を入れてくれということだったので、前日買って来たパンを入れた(パンが大好物だったので)。

火葬場は某大学からわき道に逸れて山に少し入ったところで、静かなところだった。火葬の前に、白装束の代わりの和紙を敷いたり、遺体の口を湿らせたりと色々と儀礼的なものをしていると、やはりペットとの最後の別れを迎えるもう一組の家族が現れた。高校生くらいの姉妹と、その母親と見られる女性だった。驚くべきことに、彼女たちが抱えていた犬の遺体もシェルティーだった。うちの犬より一回り小さく、毛が黒々としていた。同じ13歳だという。母も今現れた女性も、「二人で一緒に天に召されるから寂しくないね」というようなことを言っていた。

色々と儀礼的なものが済んだかと思ったら、またがっかりするような場面に遭遇した。最後にガムテープでふたをするというのだ。「釘の代わり」とはいうが、本当にそれは必要なのか?息苦しいとは考えないのだろうか?そもそも燃やすのだから関係ないのだが、あまりいい気はしなかった。

うちの方が先に準備が済んだので、先に火葬場に運ばれた。炉に入れる前に手を合わせる。棺は炉に吸い込まれていった。ここで、係が点火のスイッチを入れろといいだした。母がすがるような目で自分を見る。自分にスイッチを入れろというのか?しかし母はスイッチを触る気はないようだ。大事な火葬の流れを止めるわけには行かない。覚悟を決めた。

スイッチは簡単なつまみのようなものだった。例えは悪いが、要はガスコンロについてる奴だ。スイッチは幾つもあったが、操作しなければならないのはそのうち二つで、一つを左に捻った後二つ目を捻る。簡単な作業だ。たったこれだけで、あの柔らく暖かかった毛皮が灰になる。



スイッチを、入れた。



骨になるまで1時間ほどかかるという。その間料金の説明を聞いたり、もう一方の家族と話したりした。ここでもう一つ驚くべきことがわかった。うちの家族ともう一方の家族は苗字が同じなのだ。偶然というにはできすぎている。何か、不思議な力がはたらいたのだろうか?


係から骨壷について説明があったが、骨壷を入れる袋がどれも派手で、母親同士が不満を言い合っていた。結局二人は同じものに決めた。オレンジ色のものだ。

しばらくしてうちの家族だけが呼ばれた。遺骨が取り出されたのだ。改めて遺骨を見るとなんともいえない気持ちになる。歯は結構残っていたので、虫歯は少なかったのだろう。ここで、係に薦められたサイズの骨壷に頭蓋骨が収まらないことが判明した。シェルティーの頭蓋骨は長いので収まらないというのだ。割るか大きいサイズにするしかないと言われた。母はどうするか決めかねていたようだった。自分は火葬についての常識なんぞは何も知らないが、「骨壷に頭蓋骨が収まらないので割る」という行為にどうしても納得がいかなかったので、大きいものを用意してもらうよう母に助言した。愛犬の頭蓋骨を割るなんて、どうしてできようか。

結局大きいものを用意してもらった。母と祖母と三人で骨壷に遺骨を納めた。一通り納め終えると、母もほっとしたようだった。あの豊かな毛皮はもう二度と戻ってこない。

骨壷を持ち帰ると、母は袋が気に入らなかったのか、ハンカチで包みなおし、床の間に置いた。毎日水をお供えし、手を合わせるという。落ち着いたら川に流したいとのこと。また、「こんな思いをするなら、もうペットは飼わない」とも。うちがあの犬にとって住みよい環境だったかどうかはなんとも言えない。ただ今は安らかに。願いはそれだけだ。